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広沢真臣暗殺事件





広沢真臣 参議 享年39 長州藩の旗手

明治4年1月9日、明治維新が始まったばかりの帝都東京で政権の中枢を占める参議広沢真臣が暗殺された。
まだ39歳という若さ、まさに政治家としてはこれからという脂の乗った年齢であった。
この広沢真臣という名を知っているのは残念ながら一部の幕末好きか歴史マニアの類であろう。
当然日本史の教科書にも出てこないのだが、もしも彼があと10年長生きしていれば西郷・大久保・木戸の維新三傑は彼を加えた維新4傑になっていたであろうことは確実である。
維新後の日本政府の迷走も、広沢・大久保・大村が存命であればかなりましであったろうと管理人は考えている。



広沢真臣、幼名を柏村季之進。後に養子に入って波多野金吾と称した。
高杉晋作や山形有朋らのクーデターのより主戦派が多数を占めた長州藩で中間派のバランサー的立場にいた波多野は藩命により広沢藤右衛門と改名し藩政に参画していくことになる。
その後広沢は水を得た魚のように頭角を現し、第二次長州征討における和平交渉や、倒幕の密勅を受ける際には長州藩の代表も務めた。
戊辰戦争の評価表とも言える章典禄を見ても彼の禄は1800石と木戸・大久保に並び1500石の大村益次郎とのぞけば1000石以下の志士のなかで群を抜いて高い評価を受けている。
維新後は参与から内国事務掛、京都府事務掛など財政を切り盛りするとともに、維新の武士階級では最高位となる参議を歴任。
押しも押されぬ維新の重鎮となった。

ところが非常に残念なことに広沢は同じ藩の重鎮である木戸と仲が悪かった。
広沢は木戸が嫌いだと広言していたし、木戸もまた終始広沢を疎んじ続けていた。
ここに後の広沢暗殺の萌芽があるのかもしれない。
ライバルである薩摩藩は華の西郷隆盛に裏方の大久保利通は士族の終焉である西南戦争で敵味方に分かれてもなお親友であり続けたのに対し、長州藩の華である木戸孝充は嫌いな人物に胸襟を開けない
いささか粘着質な性格であることも災いした。
長州藩は木戸派と広沢派に分裂してともにいがみあうこととなったのである。

それ以外でも広沢は敵の多い男でもあった。
開国派の巨頭横井小楠に私淑し、頭はいいが協調性のないエリート肌の江藤新平と深く交わってた。
江藤新平はのちに佐賀の乱を引き起こし処刑されている男だが、何より蛇蝎のごとく大久保利通に嫌われていた。
日本で初めて民法典を編纂し、裁判制度や警察制度に手腕を発揮した江藤は民撰議院設立建白書などに見られるとおり理想主義者な面があり、現実主義者である大久保利通はそれが歯がゆくてならず
互いの有能さを認めながらも同族嫌悪したのではないかと管理人は推察する。
おそろしいことに征韓論をめぐって下野することを決意した江藤が、いまだ故郷の佐賀についておらぬうちに大久保は佐賀に対する追討令を受けており、最初から罠に嵌める気満々で待ち構えていた。
その思惑にのってまんまと蜂起を決意した江藤はやはり大久保に敵う器ではなかったのだろう。
そんな江藤と莫逆の友同然に交わっていた広沢を大久保もまた深く警戒していてもおかしくはなかったのである。
さらに精神的師でもあった横井小楠はキリスト教信者であったということで当時の志士からは広沢もまた横井同然の外国かぶれと見る向きが存在した。
今からは考えられないことだろうが、維新当時の明治政府は江戸幕府同様にキリスト教を禁じていたし、廃仏毀釈と言われる天皇を中心とする神道を至上とする考えから長く親しんできた仏教すら破壊して
しまおうと運動もまた存在した時代である。キリスト教徒であるということは売国奴であると思われても不思議ではなかった。



そんな明治4年の冬、布団の中で愛人であるカネと同衾していた広沢を寝静まった深夜零時過ぎ凶刃が襲う。
賊は広沢に十三太刀を浴びせたのちいずこともなく姿を消したという。
致命傷は喉元に三度に渡って突きこまれた刺し傷で素人臭い手口ではあるが、完全に広沢の息の根を止めようとしていたことが窺える。
このとき伴に就寝していた愛人のカネは見逃され一命を取り留めたが、このときすぐに急を知らせず現場から隠れたことで後に暗殺の一味ではないかと疑われることになる。

その後警察側は愛人カネを拷問し、広沢家の家令である起田正一とカネが屋敷の金を使い込んだため口封じに広沢を暗殺したという自白を得たが、さすがにこれは検察が裁判を戦えるような代物ではなかった。
証拠と言えば自白による拷問だけであり、柳橋の芸者で絶世の美女であったカネは屋敷の金など使い込まずともいくらでも広沢から金を引き出せたからである。
しかし警察側も面子にかけて引かず結局この事件は日本史上初となる陪審員裁判によって無罪と決まる。

それではいったい誰が広沢を斬殺したのか。
誰が言うともなく市中では政敵である木戸が刺客をさしむけたのだと噂した。
確かに桂小五郎こと木戸孝充は神道無念流の剣士でありながら権謀術数を得意とする男で、イメージとは裏腹に陰険な性格の男である。
さらに広沢の同志である前原一誠が事件が起こった同夜、自分も自宅にピストルを撃ちこまれたのは犯人が木戸である何よりの証拠と主張したものだから事件が迷宮入りした後も実は木戸の仕業であったに
違いないという噂は長く尾を引くこととなった。
しかし本当に木戸が黒幕かということになるとこれも怪しい。なぜなら木戸が広沢の死によって得をしたとは到底思えないからである。
この状況で広沢を殺せば疑われるのは木戸が明らかであるし、まして前原を同時に襲わせるなど策謀家としての木戸にしてはあまりに稚拙な所業と言わざるを得ない。
何より広沢という財政能力と組織調整力をもったかけがえのない人材を失った長州閥は、その後大久保利通が暗殺の手に倒れるまで政府内での影響力を失ってしまうのである。
もしも西郷が反乱を起こさず陸軍に影響力を保ったままであれば軍部の要職は薩摩閥によって独占された可能性すらあった。
これでは木戸が広沢を暗殺すべき理由がない。
いくらなんでもただの私怨で盟友を暗殺するほど木戸は器の小さな男ではないのだ。

ここで浮かび上がるのが結果的に漁夫の利を得た大久保利通である。
犯行の結果最大の利益を得たものが真犯人という定説を採用するならば本命は大久保で動かない。
さらに状況証拠として雑としか言いようのない捜査で愛人と家令の痴情のもつれを理由にカネと起田を逮捕した警察幹部は例外なく薩摩藩出身であったという。
内務省の一部局である警察庁は内務卿である大久保の強い影響下にあった。
しかもこの広沢暗殺事件を奇貨として大久保は全国各地の反政府勢力の一斉検挙を行い、ろくに取り調べもしないままに片っ端から処刑させている。
処刑された人数は数十人以上に及びその残虐さと非道さは安政の大獄の比ではなかった。


木戸孝充日記の1月22日の項には広沢の死は兄弟の死よりもつらい旨がせつせつと語られている。
陰謀家ではあっても木戸の本質はロマンチストであったように管理人は思う。
歴史の闇に消えた偉大な政治家の死が誰によって仕組まれたものか、それは永久の謎となって真実が明かされることはない。