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三毛別羆事件





事件現場に再現された原寸サイズの羆、ほとんど怪獣である。

羆による被害は21世紀の現在でも北海道の住人には身近な問題である。
その深刻さを本州の人間が察することはなかなかに難しい。
少なくとも管理人の住む福島県で一般的な月の輪熊などとは体格も凶暴性も知能まで違うということは覚えておいていただきたい。


三毛別(さんけべつ)羆事件とは1915年12月9日から14日にかけて発生した日本史上最大の獣害事件である。
1915年11月初旬、開拓村の池田家に巨大な羆が現れた。幸い馬が暴れたために被害はトウモロコシだけで済んだ。開拓村はまだ周辺の開拓に着手したばかりでこうした自然動物との接触は決して
珍しいものではなかったのだが、残された足跡のあまりの巨大さに池田家の主人富蔵は懸念を深くしていた。
そして11月20日、再び現れた羆を退治するためにマタギが二人雇われ、富蔵と三人で鉄砲を撃ちかけるも傷を負わせたのみで取り逃がしてしまう。
マタギの1人はあの熊は「穴持たず」という冬眠を逃してしまった熊であると断言した。
おそらく熊はあまりの巨体ゆえに身体にあった巣穴を見つけることができなかったのだろう。
昔から「穴持たず」には手を出すなと言い伝えられるほど、冬眠し損なった熊は凶暴さを増すというマタギの言葉は不幸にも近い将来に実現することとなる。


12月9日、開拓村は農作物を出荷する作業に追われており、機械化されていない当時はこうした重労働のため男手はいくらあっても足りることはなかった。
この日太田家でも家に寄宿していた伐採を生業とする長松要吉(59)が一足早く仕事に向かい、当主の三郎(42)も氷橋(すがばし。木材で骨組みを作り、その上を雪や水で覆って凍らせ、固めて完成させた橋、金大一少年の事件簿で橋のない崖を車で通るのに用いられている)に用いる桁材を伐り出すため出掛け、三郎の内縁の妻・阿部マユ(34)と太田家に預けられていた小児・蓮見幹雄(6)の二人が留守に残り、穀物の選別作業をしていた。
昼になりいつものように要吉が昼飯を食べに家に戻ると土間の囲炉裏端で幹雄がうつむいたままポツリと座っていた。
声をかけても反応しない幹雄にタヌキ寝入りでもしているんだろうと要吉は背後から肩を叩き幹雄を覗きこんだ。
ところが幹雄はタヌキ寝入りなどしているわけではなかった。喉を何か鋭利なもので切り裂かれ上半身を血で真っ赤に染めたまま幹雄はすでにこときれていたのである。
さらによくよく見れば側頭部は親指大の穴が穿たれて白い脳みそが露出していた。
吐き気を催し後ずさった要吉はマユの名を呼ぶが薄暗い居間からは血と獣臭の混じりあった異様な空気が漂うのみ。
悲鳴をあげて家を飛び出した要吉は無我夢中で下流の架橋現場へと走った。
駆けつけた村の男性たちは、踏み入った太田家の様子に衝撃を受けつつも、これがヒグマの仕業だと知るところとなった。
入口の反対側にあるトウモロコシを干してあった窓は破られ、そこから土間の囲炉裏まで一直線に続くヒグマの足跡が見つかった。おそらく、トウモロコシを食べようと窓に近づいたヒグマの姿にマユと幹雄が驚いて声を上げ、これがヒグマを刺激したものと思われた。
足跡が続く居間を調べると、くすぶる薪がいくつか転がり、柄が折れた生々しい血で染まったまさかりがあった。
ぐるりと回るようなヒグマの足跡は部屋の隅に続き、そこは大量の鮮血に濡れていた。
それは、まさかりや燃える薪を振りかざして抵抗しつつ逃げるマユがついに捕まり、羆の攻撃を受けて重傷を負ったことを示していた。
そこからヒグマはマユを引きずりながら、土間を通って窓から屋外に出たらしく、窓枠にはマユのものとおぼしき頭髪が無念を訴えるかのように絡みついていた。 
実は事件直後、村人の一人が偶然太田家の窓側を通る農道を馬に乗って通り過ぎていた。 
しかし彼は家から森に続く何かを引きずった痕跡と血の線に気づいたが、マタギが獲物を山から下ろし、太田家で休んでいるものと思い、その時は特に騒ぎ立てなかったのである。
これらから、事件は午前10時半頃に起こったと推測された。
小さな開拓村で発生した死亡事件に事件の報に村は大騒動となった。
しかし12月の北海道は陽が傾くのも早く、幹雄の遺体を居間に安置した頃には午後3時を過ぎており、この日に打てる手は少なかった。
太田家から500m程下流の明景(みよけ)安太郎(40)家に男性たちは集まり善後策を話し合った。
ヒグマ討伐やマユの遺体奪回は翌日にせざるを得ないが、なんといっても一国の早く役場と警察に報告し応援を呼んでもらわなくてはなくてはならない。
そして幹雄の実家である蓮見家への連絡を取らなければならなかった。
しかし当時は固定電話すらないころである。
通信手段は誰かが直に出向くより他にない。一度はある男性が使者役に選ばれたが、本人は嫌がり、結局頼まれて斉藤石五郎(42)が引き受けることになった。
太田家よりもさらに上流に家を構える石五郎は、所用にて当主・安太郎が外出しなければならない明景家に家族を避難させ、要吉も男手として同泊する手はずが取られた。


翌朝、斉藤石五郎は応援を呼ぶため村を後にした。
残る男性たちは討伐およびマユの亡骸を収容すべく約30人の捜索隊を結成した。
昨日の足跡を追って森に入った彼らは、150mほど進んだあたりで早くもヒグマと遭遇した。
馬を軽々と越える明らかに常軌を逸した大きさ、全身黒褐色一色ながら胸のあたりに「袈裟懸け」と呼ばれる白斑を持つヒグマは捜索隊に襲いかかった。
咄嗟に鉄砲を持った5人がなんとか銃口を向けたが、なんと手入れが行き届いておらず、発砲できたのはたった1丁だけにとどまった。 
怒り狂うヒグマに捜索隊は散り散りとなったが、幸いあっけなくヒグマが逃走に転じたため、彼らに被害はなかった。
改めて周囲を捜索した彼らはトドマツの根元に小枝が重ねられている血に染まった雪の一画と、その下から黒い足袋を履き、ぶどう色の脚絆が絡まる膝下の脚と頭蓋の一部しか残されていないマユの遺体を発見した。
余談だが羆はろっ骨を割って胸部から食べ始め足の裏と頭蓋を残して人体は全て食べてしまうという。
このヒグマは今や人間の肉の味を覚えてしまった。
マユの亡骸を雪に隠そうとしたのは冬を乗り切りため保存食にするための行動だった。
一度口にした獲物に強い執着を示し、奪われたものを取り返しに来るヒグマの習性を熟知していた村のある男性はポツリと「ヒグマはまた来る」と呟いた。

夜になり、太田家では幹雄の通夜が行われたが、村民はすっかり羆の襲来におびえ家を出ようとせず参列したのはたったの9人だけにとどまった。
その中のひとり幹雄の実母・蓮見チセ(33)が酒の酌に回っていた午後8時半頃、大きな打撃音とともに居間の壁が突如崩れ、屋根よりも大きそうな羆が室内に乱入して来た。
棺桶が羆の爪で打ち返されて遺体がバラバラに散らばり、恐怖に駆られた会葬者達は悲鳴をあげながら必死に梁の上に上り、登れない者も野菜置き場や便所に逃れるなどして身を隠そうとした。
我先に逃げまどう者たちをよそに、一部の者は死を覚悟しつつも懸命に石油缶を打ち鳴らして羆を威嚇した。
この行動に勇気づけられた男たちがようやく冷静さを取り戻し銃を取り出して撃ちかける。
さらに300m程離れた隣家で食事をしていた50人ほどの男性たちが物音や叫び声を聞き駆けつけた。
しかし警戒心の旺盛な羆はその頃にはすでに姿を消していた。
幸いなことに犠牲者が出なかったことに安堵した一同は、壁を破壊されてしまった太田家にいるわけにもいかずいったん明景家に退避しようと下流へ向かった。

太田家の騒動は明景家にも伝わり、避難した女や子供らは火を焚きつつ心細さにおびえながら過ごしていた。
護衛は近隣に食事に出かけ、さらに太田家への羆出没の報を受けて出動していた。
いかなる天の采配であろうか。田家から間一髪逃れた羆は、まさにこのとき守りのいない状態の明景家に向かっていたのである。

太田家からヒグマが消えてから20分と経たない8時50分頃、背中に四男・梅吉(1)を背負いながら太田家に向かった討伐隊の夜食を準備していた明景安太郎の妻・ヤヨ(34)は、地響きとともに窓を破って侵入して来た黒い塊に驚き、「誰が何したぁ!」と声を上げた。
しかし返ってくる言葉は無かった。その正体は、ヤヨが見たこともないほど巨大なヒグマだったのだ。
カボチャを煮る囲炉裏の大鍋がひっくり返されて炎は消え、混乱の中ランプなどの灯りも落ち、家の中は真っ暗闇となった。
ヤヨは咄嗟に屋外へ逃げようとしたが、恐怖のために反射的にすがりついてきた次男・勇次郎(8)に足元を取られ、よろけたところに羆が襲いかかり、背負っていた梅吉がその巨大な牙で噛みつかれた。
そのまま三人は羆の手元に引きずり込まれ、ヤヨは頭部をかじられた。
その時、男性番として唯一家にいた要吉が逃げようと戸口に走った姿に気を取られた羆は母子を離し、この隙に乗じヤヨは九死に一生を得て子供たちを連れて脱出した。
追われた要吉は物陰に隠れようとしたがかなわず、羆の牙を腰のあたりに受けた。
要吉の悲鳴に羆は再度攻撃目標を変え、屋内に眼を向けた。
そこには未だ7人が獲物が取り残されていた。
羆は幼い明景家の三男・金蔵(3)と斉藤家の四男・春義(3)を一撃で撲殺し、さらに斉藤家三男・巌(6)に噛みついた。息子たちを惨殺されていく様子に野菜置き場に隠れていた石五郎の妻・斉藤タケ(34)が思わず顔を出してしまい、この女もまた羆の標的となった。
羆の爪にかかり居間に引きずり出された身重のタケは「お願いだから腹をやぶらないで」と胎児の命乞いをしたが、それも空しく上半身から食われ始めた。
先ほども言ったが羆は多くの場合から胸部から食べ始めるのでお腹を破らないはずがないのである。
そのころ川下に向かっていた一行は、激しい物音と絶叫を耳にして急いだ。そこへ重傷のヤヨがたどり着き、皆は明景家で何が起こっているかを知った。途中要吉を保護し、男性たちは明景家を取り囲んだ。
中からは、タケと思われる女のうめき声、そして肉を咀嚼し骨を噛み砕く音が響く。
一同は二手に分かれ、一方は入り口近くに銃を構えた10名あまりを中心に配置し、残りは家の裏手に回った。そして裏手の者が空砲を二発撃つと、羆は入口を破って、表で待つ男性たちの前に現れた。先頭の男性が撃とうとしたが、またも不発。他の者も撃ちかねている隙に、羆はまたも姿を消したのだった。
明景家に踏み込んだ者たちが目にしたのはこの世の地獄であった。
幼い二児は無惨にも食いちぎられ小さな身体は両断されており頭部の一部も噛みちぎられていた。
タケもまた臨月を迎え膨らんだ腹を食いちぎられており内臓を食われて絶命していた。胎児は羆に手を出された形跡はなかったものの、医療機関のない開拓村では適切な処置をすることも出来ず一時間後には胎児も死亡している。
三男の巌もこの時点では生存していたがその姿は無惨で肩や胸からの出血が激しく食いちぎられた太ももと尻からは白い骨が露出しているほどであったという。
母の死を知らない巌は「おっ母ぁ!クマとってけれ!」とうわごとを呟きつつ20分後に絶命した。
わずか2日という短い時間に胎児を含めると7名という尊い人命が失われていた。
哀れな事に村の危急を報せに苫前に向かった斉藤石五郎は、その帰路で自分のいない間に妻と息子が羆に悔い殺されたことを聞かされ呆然と雪の上に倒れ伏し慟哭するほかなかったという。

恐ろしい報せに驚愕した北海道庁はただちに討伐部隊を組織。
羽幌分署長である菅貢警部に討伐隊の指揮官の命がくだった。
一方一足先に検死のため村に向かった医師はその途上で羆の糞を発見し、そのなかに未消化の人肉を発見して戦慄した。
しかし近隣の青年団や消防団を動員して行われた山狩りは一向に成果を修めることが出来ず、苦慮した菅貢警部は罪悪感を押し殺して犠牲者の遺体を囮にして羆をおびき寄せるという作戦を決行する。
(羆は獲物を取り戻そうとする習性がある)ところがこの奇策も野生の勘からか直前で羆は引きかえしてしまい作戦は失敗に終わった。

12月13日に入ると陸軍第七師団から30名の将校が選抜され討伐隊に加わる。
捜索の結果羆は頻繁に村の民家を襲っており(避難して村人の被害はなかった)、とりわけ女性の匂いが残った服や寝具に執着していることが判明した。
タケを食らった羆は明らかに人間の女性の味に執着しており、期待していた獲物が見つからないため警戒心を失いつつあった。

12月14日、手負いの羆を再び山狩りで撃ち果たそうと討伐隊が準備を開始したがそれより早く1人の男が山入りしていた。
男の名を山本兵吉という。鬼史家村に住む彼は腕ききのマタギであったが素行が悪く深酒をしては喧嘩をして歩く悪名高い男であった。
しかし事態の打開のため三毛別村の村長は独断でこの山本にクマの討伐を依頼していた。
ちょうど折しも山を登り始めた討伐隊に気を取られていた羆は風下から気配を殺して接近する山本に全く気づかなかった。
20mという至近距離まで接近した山本は冷静に狙いを定めると背後から羆に向かって発砲し心臓に近い場所へと命中させる。
油断なく第二弾を装填した山本はおそらくは即死に近い状態であったはずの羆の頭部を正確に撃ち抜く。
腕利きのマタギにとって、丈夫な皮膚で覆われた羆の急所を正確に狙い撃つことは絶対に必要な技量であった。

体重380kg(340kgとも)立ち上がった身長はおよそ3mという規格外の羆は橇に乗せられふもとの村に運ばれた。
そのとき晴天であったはずの天気が急に悪化し、激しい吹雪となって危うく橇を引く討伐隊は遭難するところであったという。
地元の者はクマを殺すと空が荒れるといい、これを「熊風」と呼んで忌み恐れた。




三毛別の熊だとブログで紹介されていたがいくらなんでも縮尺が違いすぎる。
おそらく南国のどこかと思われるが……



北海太郎のはく製。体重500kgと言われているので三毛別はこれよりは小さいことになる。
いずれにしろ人間の力で熊に対抗することは不可能。
断言するがウィリー・ウィリアムスはやらせである。



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