×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

寿産院もらい子大量殺人事件

            




 死者169名という報道だが刑は思いのほか軽かった………。殺意を認定すれば津山三十人殺しなど目ではない。



 寿産院事件とは1944年4月から1948年1月にかけて東京都新宿区で起こった嬰児の大量連続殺人事件である。被害者の数は103人というのが有力だが、最大で169人という数字は日本史上でも
戦争以外でもっとも多い殺害数と言えるだろう。
 1948年1月15日午後7時半頃、東京・新宿区弁天町で早稲田署員2人がパトロールをしていたところ、自転車に乗って数個のミカン箱を運んでいた葬儀屋N(当時54歳)を見かけた。
 すでに夜になっていたため不審に思って事情を聞き、荷台に積んであった箱を調べてみると、中には嬰児の死体がメリヤスのシャツとオムツに入れられて置いてあった。
 「これは寿産院というところから頼まれたもので、火葬場に運んでる最中だ」
 Nはそう言い、話によると牛込柳町(現・市ヶ谷柳町)にある「寿産院」から計4体の遺体を運んでおり、前年の8月以来、20体以上運んでいたのだという。
 その遺体の数の多さにさすがに怪しいと考えた警察は最近死んだと見られるNが運んでいた6つの遺体を解剖してみたところ、3人は肺炎、2人は凍死、1人が餓死で、6人とも食べ物が与えられた形跡はなかった。 
 さらに寿産院を経営する石川ミユキ(当時51歳)、夫の猛(当時55歳)を呼んで取り調べをしてみたところ、同院では大量の子どもが死亡していたことがわかる。
 まもなく石川夫婦と助手のA子(当時25歳)は殺人罪の容疑で逮捕された。同院から1人500円の埋葬料を貰って遺体を処理していたとされるNは容疑不十分で釈放されている。
 
 この鬼畜の夫妻だがこの事件が起きるまで付近の住民の評判は決して悪いものではなかった。
 妻のミユキは東大医学部の産婆講習科を卒業しており、一時は新宿区議会選挙に出馬するほどであった(落選)。
 夫の猛は軍に志願して憲兵軍曹となり、なんと新宿警視庁の巡査まで勤めていた。
 身元を調べたら身内の警察出身であったと知った捜査官はさぞ驚いたことだろう。

 
 寿産院では44年から、新聞に三行広告を出して食糧難にあえぐ母親たちから1人5、6000円の養育費で赤ん坊を預かってきた。
 当時、タバコの「ピース」10本入りが7円、NHK聴取料5円、新聞月8円であったことを考えると、取引額はかなり大きいものであった。
 また預かった子どもは1人300円、器量の良い子どもは500円という値をつけて希望者に売っていた。
 敗戦から3年しか経っていないこの年はベビーブームであったが、同時に貧しくまだまだ混乱した時代だった。

 警察が駆けつけてきた時には院内に7人の子どもがいたが、1人はすでに死亡しており、残りの子どもも冬なのに肌着1枚しか着せられず、泣く力さえないほど弱っていた。
 それまでに同院に預けられた子どもは合わせて240人にものぼり、そのうち104人が死亡していた。正確には把握できないため、あくまで推定でこの数字である。あの夜、パトロール中の警察官が葬儀屋を見咎めないでいたら、被害児はもっと増えていただろう。

 夫婦は産院を経営すれば政府から乳児用の主食配給が獲得できるため、とりあえず子どもを預かり、食べ物はほとんど与えず、病気になっても放ったらかしにしていた。
 食事だけではない。風呂にも入れず、親のある子が死亡すると、親のない子が死んだように偽装して配給品を受け取った。そもそも寿産院には多くの子供の面倒を見るだけの人手も、設備もなかったのである。
 石川夫婦は受け取った配給品をほとんど横流ししていたという。さらに子どもが死ぬと、葬儀用に酒が貰えた。これをまた横流しするのである。
 夫婦がもうけた金は100万あまりにのぼると見られる。区役所の職員らに酒をふるまったりして、戸籍手続き、衛生などの取り締まりに対して便宜をはかっていたということもあった。
 この件に関し当時の新宿区長や当該課長は「書類を見て判断した」と便宜をはかったことを否定している。


 生き残った乳幼児たちは親元に帰ったり、養子にもらわれたりしたが、半数ほどは孤児院に預けられることになった。
 要するに、これほど悲惨な状況にいた子供たちの大半はそれでも親元には帰れなかったのである。
 もとより引き取れるくらいなら最初から預けたりしないのだ。
 
 亡くなった子どもの母親達は事件後、早稲田署に「鬼を殺せ!」 「鬼に会わせろ!」と押しかけた。
 一方のミユキは「わたしは誠心誠意やってきた。(預けに来る母親達に)もう少し母乳を飲ませてからでないと死ぬと断っても、無理に預けていってしまう。死ぬのは当然だ」と語った。
 泣く泣く子どもを手放した親と、配給制度。戦後直後の食糧難の時代だからこそ起こった事件である。
 実質的には放置されて子供が死んだことは殺人ではなく遺棄致死罪ということになる。
 また食糧難で衰弱死するような子供はこの寿産院以外の一般家庭においてもそれほど珍しいことではなかった。
 そのため死んだ子供と寿産院の管理との因果関係を立証することは困難を極めた。

 結局東京地方裁判所は妻ミユキに懲役8年、夫猛に懲役4年、さらに東京高等裁判所はミユキに懲役4年、猛に懲役2年を言い渡すにとどまった。
 経済的理由による人工中絶が許可されたのは翌年の1949年6月24日のことであった。
 この種の犯罪が敗戦後まもない昭和二十年代前半以外で成立することはなかっただろう。
 軍人が復員してきても職もなく食糧もない。治安の悪化は深刻で米軍が日本を占領統治していた時代である。
 戦後のアンダーグラウンドに横たわる闇は、管理人が考えている以上に深く暗い。


  逮捕されるミユキと猛

 
  裁判席でのミユキと猛











戻る